慶應義塾大学 通信教育課程(以下、「慶應通信」)卒業を目指し、その学びを書きとめる当ブログ、今回の記事は慶應通信とは全く関係がない書きとめです。
今回は、「頭がいい」とよく他人を褒める人に覚える私の違和感、の書きとめです。
ビジネスシーンの話である点はご注意ください。
本記事は、
- 論点の整理
- 「頭がいい」ってなんだ?
- 私の違和感の正体
の3本を書きとめて参ります。
私は慶應通信 文学部 第2類(史学)で学ぶ40代中年オヤジ。平日はサラリーマン、休日は大学生。人の倍の人生を楽しんでいます。
本記事は慶應通信とは全く関係がない、息抜き回(?)の書きとめです。
来週末に2023年度第Ⅲ回科目試験を控えた私の息抜きも兼ねています(笑)
論点の整理
先に論点を整理します。
論点は「しょっちゅう他人を 頭がいい と褒める人に感じる私の違和感」です。
そして結論は、「結局違和感の正体は自分自身の強い思い込みの中にあったと気がついた」が本記事で一番言いたい書きとめです。
使われる場面は大きく分けて以下の2種類です。
1.とっさのフォローとして使う
他人の噂話をしている際、その内容に批判を伴う場合には、なんとなくお互いに座りが悪いと感じることがありませんか?その際、話の後半でポッと唐突に登場します。具体的にはこんな感じ。
話者:甲「Aさんはあんまり今の仕事に向いていないね」
話者:乙「そうだね、もう5年もやってるけどなかなか成果が出ていないね」
話者:甲「もうちょっと謙虚になった方が良いよね」
話者:乙「そうだね。周りの評価もよくないし、ちょっと自分を振りかえる必要があるかもね」
話者:甲「でもAさんは本当言うと頭がいいですよね」
おそらくですが、話者:甲さんは「悪口を言うのはよくないもの」という道徳心があります。さすがに言い過ぎたか、と自身が感じた際、たまらず「頭がいい」でフォローを試みていると考えられます。
2.クッションとして使う
こちらは先に例を見て頂いた方がよいでしょう。こんな感じです。
「Bさんはめちゃくちゃ頭がいいです。でも今の仕事がさすがに専門外すぎて力が発揮できないのだと思います」
「Cさんは協調性が全然なく、いつも自分勝手です。頭はいいんですけどねぇ」
両ケースとも、話者が言いたいことは「今の仕事は専門外で向いていない」、「協調性がない」であり、「頭がいい」は主張ではない点が重要です。「頭がいい」は先のパターン1同様、行き過ぎたと自身が感じる他者への悪評を和らげるクッションとして使われています。
また、パターン1との共通点として、話者には「悪口を言うのはよくないもの」という道徳心が宿っていると推測できます。
いかがでしょうか。
散発的に聞く分には私もなんとも思わないだろうと感じます。
ところが社会に出た後、そんなに多くはないのですけれども、1と2のパターンで「頭がいい」を頻繁に使用する人びとに時おり出会います。
最初は(おや?)と思う程度でした。
しかし、これら「頭がいい」を頻繁に使用する人々への違和感が言葉に出来た時、(あ、自分はこんな思い込みをしていたんだ)という気付きを得ました。
具体的に私が気付きを得るに至るプロセスと結果について章を改めて書きとめて参ります。
「頭がいい」ってなんだ?
まず違和感を言葉にしようとした際、私が自分自身に発した問いが、「頭がいいってなんだ?」です。
「頭がいい」って何でしょうか?
・記憶力がある、ですか?
・高学歴である、ですか?
・発想力に富んでいる、ですか?
・コミュニケーション能力が高い、ですか?
・説明が分かりやすい、ですか?
・理解が早い、ですか?
・意見が的確と感じることが多い、ですか?
・英語ができる、ですか?
・視座が高い、ですか?
・いつも冷静沈着、ですか?
・眼鏡をかけている、ですか?
11個、思いつくままに私が考える「頭がいい」要素を挙げました。いったい前の章で話者が使う「頭がいい」はどれに該当するのでしょうか?
おそらく上に挙げた例と、他の要素も合わせた複数の「頭がいいと言われるための条件リスト」があります。話者はリストから複数の組み合わせをイメージして「頭がいい」という表現に統合して言葉を発しているのではないかと思います。
もっともそれはイメージ止まりです。話者は意識的にリストからいつくかを選び取りながら、それらをまとめて「頭がいい」とは言っていないように思います。
それが証拠に「え?頭がいいって例えば?」と私はたまに意地悪な質問をします。その際、今のところ100%の確率で質問してから相手は一瞬(そんな質問が来るとは思わなかった)という顔をしてから考え始めます。
ここで言いたいのは「頭がいいとは複数の要素に分解されるのである」ではありません。
「頭がいい」という単語を自分以外の他者によく使う人は、「頭がいいってどういうことだろう?」とあまり考えていないのではないか、が言いたいことです。
言い換えれば、「頭がいいってどういうこと(状態・能力・etc…)か」と深く考えないので、すぐ「頭がいい」というフレーズに頼ってしまうのではないか、と考えています。
別にいつもいつも深く考えてコミュニケーションを取っていると疲れ切ってしますので(実際に私は疲れ切っていますけれども)、他愛もないと言えばそうです。私も会話の流れで一瞬違和感を覚えつつも聞き流すことの方が多いです。
それでも「頭がいい」と聞くととっさに(ん?)と引っかかる機会が多いと感じるのもまた私の中の事実です。
しばらくの間、「あんまり物事を考えずに「頭がいい」ってフレーズを使っているだろう(私はもっと深く物事を考えているのだから貴方も少しは考えてから表現してよ)」が私の違和感の正体だと思っていました。
しかし最近それは違う、と気がつきました。
最後に章を改めて、私の違和感の正体を書きとめます。
私の違和感の正体
私が違和感を覚えるのは「話者がよく考えずに「頭がいい」というフレーズをよく使っているから」ではなかったのです。
私がある日ふと気がついた「頭がいい」を繰り返す人々に対して覚える違和感、それは、
- 「頭がいい」=無条件に良いもの、と考える価値観
- 自分が高い価値を与えている「頭がいい」という評価を自分も得たいだけという心理が話者に隠れている
でした。
まず「頭がいい」というのは手放しで喜ぶほどに良いことなのか、という点が引っ掛かります。
なぜそんなに価値が高いのでしょうか?
このように考えた時、あんまり物事を考えずに「頭がいい」というフレーズを使うことへの違和感は、ここにきて「頭がいいと言う点を考えもせず無条件に信じていることへの無神経さ」への違和感へと変わりました。そして実際しばらくの間、私はその理解で日常を過ごしていました。
とは言え、日本の学歴社会で学生生活を過ごした私にも「頭がいいのは良いことだ」という価値観は一定程度共有されています。
実際、通信制大学に通う、しかも、数ある通信制大学の中で慶応義塾大学を選択し、そこで学ぶ私自身も「頭がいいのは良いことだ」と考えていることを自らが行動にしていると言えます。
そう考えた時、違和感の正体は、「頭がいいと考えることは人と自分、人と人を比較して相手を見下すことに繋がりやすいので簡単に言葉にするものではない」という価値観を私が強力に持っているため、と気がつきました。
したがって、私がタブー化している禁忌を悠々と破る人に対して、私はずっとずっと違和感を覚えていたのです。
また、私のタブー視する視線が強ければ強いほど、「頭がいい」という価値観を高く評価し、また自分自身がそう思ってもらいたいと願う人々に対する違和感を大きくしているという側面があったのです。
なんということでしょう。「頭の良し悪しで人を評価してはいけない」という私の道徳観。これが、「良く物事を考えない人への蔑視」というゆがんだ格好で私の感情、行動、考えに繋がり、私を支配していたのでした。
本記事は慶應通信で学んだことが直接的な気づきに繋がった、という話ではありません。
慶應通信で史学を学ぶ日々の中、時代が違い、地域の違いの中で揺れ動く人々の価値観を学び取りながら、ふと自身を振りかえった際、(ああ、違和感の正体は自分のこういう思い込みから生まれていたのか)と気がついたことの書きとめでした。
これからは「頭がいい」と言うフレーズをたくさん使う人々とも少し仲良くできそうです。具体的には自分の中の「頭の良し悪しで人を評価するべきではないという道徳心」を意識しながら、彼らの「悪口はいけないとう道徳心」を尊重できるのではないかと思うのです。
何かの参考になれば幸いです。最後まで読んでくださりありがとうございました。
私は来週の試験勉強に励みます(笑)
コメント
こんにちは。私は慶應通信を志す者です。いつも記事読ませていただいて、非常に助けになっております。文章もきちんとされていて、読んでいてとても心地よいです。ですが、志望するにあたり少し疑問点がありまして、ここに書かせていただくのでお手隙の際に返信していただけますと幸いです。
1、実際に出願時に提出した3つの意見文を、合格時、不合格時のものあわせて個人的にお見せ願えませんでしょうか。
2、スクーリング等の際に他の学生さんとの関わりはありますか。
とりあえずは、以上2点です。ご多忙とは存じますがぜひ、よろしくお願いいたします。
岸様
コメントをくださりありがとうございます。
また、返信が遅くなりまして大変申し訳ございません。
お問い合わせくださいました2点にそれぞれご回答いたします。
まず「1」は誠に恐縮ですが、差し控えさせてください。
私は「出願時の志望理由などをインターネット上に公開する行為は
公正な選考作業の妨げとなることに加え、トラブルに発展する恐れがある」
という慶應義塾大学の考えに賛同しております。
何卒ご理解賜りますようお願い申しあげます。
「2」は個人的な経験で申しますと
「少しお話することはあれども友だち関係にまで発展したことはない」
となります。
もっとも他の方々のご様子を拝見しておりますと慶應通信内で知り合われたご関係だろうか、
と思う方々を見かけることも多いです。
通信教育課程はコツコツと一人での勉強が続きますので、話しかけられて悪い気持ちを抱く方は
少ないのではないかと想像します。
もしご希望されるのであればぜひご入学後に積極的に話かけられてはいかがかと存じます。
最後に文章をおほめくださりありがとうございました。
こちらこそ岸さんのコメントを拝見しまして、とても嬉しくなりました。
また何かあればどうぞコメントをくださいませ。
ありがとうございました。